♠7月号 がんばろう 明日はどうにかなるさ
2019年07月02日
がんばろう 明日はどうにかなるさ
ダメ先生への追悼
創立以来、絵画講師をお願いしていた合志幹雄先生が、立川の病院で、88歳のお祝いを前に亡くなられました。幼稚園の先生と昔の教え子に見送られて多磨霊園でお別れをしました。残念です。
先生は私たちと子どもたちに豊かな夢を与えて下さりました。子どもたちは、伸び伸びと個性的な絵を描きます。その基盤は、阿蘇山を描き続けた先生のロマンの結晶で、健伸の保育の中で確りと継承され生きています。
合志幹雄先生は、熊本県出身で阿蘇連山を描き続けた山岳画家です。
私にとっては、先生は、中学以来の絵の師匠でもあり、中学3年間の担任でもあり、私の人生を支えてくれた恩師でもあります。
この原稿も合志先生は、苦笑されながら読んでくださると願って、書いています。
昭和27年4月、市川市立第4中学の入学式。
私たち1年2組の担任は、古びた学生服を着た合志先生。
「熊本県の阿蘇は私の心の故郷です。阿蘇の朝焼け、阿蘇連山の夕焼けは、私の心を大きく広げてくれます。私は、昼は中学の絵の教師、夜は早稲田の学生、休みの日は絵描き・・・、給料は安く、貧乏で食も貧しく、いつもお腹をすかしています。でも心は元気です。苦しくても今を懸命に生きれば、明日は新たなる風が吹く。みんな毎日を元気に過ごしましょう」と自己紹介されました。
合志先生への生徒たちの評価は、何でも熱心に受け止め、励ましてくれる兄貴のような存在。そして、保護者・家庭の評価は「たよりにならないが、子どものことを考えてくれる熱心な教師。戦後の荒廃の最中、当時は、どの家庭も貧乏で、子どもの教育どころではなかった。八百や、魚や、傘や、下駄や、肉やそして農家・・・、どの家も子どもを労働力として「あて」にして、子どもを学校へ通わせなかった。
したがって、子どもにとって、学校への登校は仕事から開放される場であった。
担任の合志先生は、寝不足でよく遅刻をされた。朝のホームルームは、担任不在で、規律外でよく問題を起こした。その度に担任は、校長に呼ばれ注意をうけた。合志先生は「ダメ先生」と呼ばれレッテルをはめられた。
しかし、子どもたちは、貧乏なダメ先生の熱血ぶりが好きだった。給料も安く画材も買えず、キャベツをかじって生活していたダメ先生を親に頼んで、代わり番こに夕食に招いたり、食料の差し入れをしたりした。
ダメ教師のダメ組は、悪ガキ集団だった。下校時、腹を空かして、イモ、大根、スイカや柿、トウモロコシ畑に侵入。その度に、ダメ先生は、校長室に呼び出され、始末書を書かされた。
2年生の6月、ダメ先生がクビになるという噂が広がった。 校長室に出かけ、「おれたちが がんばるから 合志先生をクビにしないでほしい」と校長と教頭に頼んだ思い出がある。結果、合志先生の熱意、前向きの生き方を肌で感じた子どもたちは結束した。家庭の協力もあって、クラス全員が登校するようになった。夏休みは、くず鉄集め、新聞配達、納豆売り等をして、修学旅行に全員がいけるようにがんばった。作戦会議で臨んだマラソン大会もほとんどが頑張って上位を占めた。学校の生徒会の役員に立候補したり、お互いに教え合って勉強もしたりした。
子どもたちは頑張ったし、ダメ先生も「今を頑張れば明日はいいことあるさ」と云いながら頑張った。そして誰一人として落後すること無く卒業できた。
ダメ先生は私たちが卒業した翌年、先生を辞めて貧乏画家になった。
1972年、健伸幼稚園がスタートした時に、東村山で新婚世帯を持った合志先生を健伸のスタッフとしてお迎えに伺った。
「子どもたちに九州弁で夢を語ってほしい。あのモクモクと噴煙を立ち上げる阿蘇山の勇姿を子どもたちに話して、大きな自然の力を子どもにすりこんでほしい」
3歳から5歳の子どもが、ドロンコになってあそべば、やがて生きる力となり、明日への羽ばたきになる。絵を通して大きな心を幼い子どもたちに刷り込んでほしい」とお願いした。子どもたちに絵を描くことを通して、多くのロマンを築いて下さった。
当時の仲間が集まると、「おまえは大学まで、行ったんだから、ダメ先生の面倒を見て、夢を消さないようにお前が引き継いでほしい」と云われる。
合志先生の葬儀には、元気な4名が代表して参加した後の報告会
「ダメ先生、生涯貧乏だったが、心は豊かだった」
「校長にはダメ教師で叱られていたが、俺たちにとっては命綱だったなぁ」
「どんなにつらいことがあっても、「がんばろう!あしたはどうにかなるさ」と肩をたたいて励ましてくれた。あれは今でも肝に銘じているよ」
「幼稚園には先生の教えが生きている。どこかで個展と忍ぶ会を考えているよ」
最近、マスコミでは類似の事件が次々に報道される。「エリート元官僚が、引き込みダメ息子を刺し殺す」「テレビ局常務のエリート親父の息子が交番を襲撃」
「80親父に50息子」「70世代に40世代」・・親バカ故の現在社会の歪みを揶揄した話題がネットを賑わせたりしますね。「高齢者たちが、もたらした高度成長社会が、息子や孫世代を無気力化させているのではないか?」という意味でしょうか
終戦直後の昭和は、貧しさのどん底で這いつくばって生活していたが、今を頑張れば、明日の風が吹く」という嵐の去った後の青空が輝いていた。
そして今では、パン屋に奉公したK君も大工に奉公したY君も農家に嫁いだMさんも、外車に送られてきたりする。
裕福になった家庭に育った後継者たちが、引き籠もり現象に落ちる。その数、推定で60万人。家庭でゲームにふけり引き籠もりをしているという。
平成の31年間は、戦争も無く平和だった。それだけに、国民全体の意欲が停滞したのかもしれません。
2018年の人口動態統計が発表されました。一人の女性が生涯に生む子どもの推計人数を示す合計特殊出生率は1.42で3年連続低下したようです。ついこの間まで人口を維持するための出生率は2.07といわれています。子どもを産むか否は、夫婦家庭の問題で政府や企業が音頭をとるものではないと思います。夢を求めて大都会へ出てきた若者が巣ごもり、結婚をしない。東京都の出生率は全国最低。
私たちの時代は、貧しくとも「この国に生まれてきて幸せ。この先生に出会えて幸せ。共に分かち合う友だちがいて幸せ」という温かき風が社会に吹いていた気がします。
「若者が家に引き籠もり、高齢者が元気に自動車に乗って外出して交通事故をおこす」マスコミは手ぐすねを引いて競って事故を取材し報道する。結果、世の中に規制の枠が張られ、窮屈になる、夢とロマンが無くなる。
昭和と平成の軋みが、令和の子どもたちが育つ環境に過剰な保護と規制の枷(かせ)をはめすぎないように祈っています。