12月号① ♣ 立て 走れ 飛べ ゆくは はてなし 大宇宙♣

2016年11月17日

理事長コラム

  77歳喜寿を迎えました
園児たちに囲まれて77歳の喜寿のお祝いをしてもらいました。
ボール紙や折り紙、画用紙で一人一人が作ってくれたプレゼントに埋もれて、とても幸せなお誕生会を迎えることができました。
私の母が77歳の誕生日の直前に旅だったこともあり、私にとっては、77歳の誕生は一つのハードルだっただけに、子どもたちに囲まれて元気に迎えた喜寿のお祝いは幸せでした。          11月は「いい月」。 大切なスペースをお借りして、青木久子監修の知の探究に掲載された私の「幼児教育者の問い」から抜粋した記録を掲載させていただきます。何度も聞き飽きた内容もあるかと思いますが、ご容赦ください。

     白樺派のロマンへの学び
小学校の5年生の時、押し入れにあった、旧仮名遣いの徳富蘆花「思い出の記」を読みふけった。
母子家庭で育った主人公が、早稲田大学に学び、良き妻と幸せな家族に恵まれ、新聞記者として明治の時代をたくましく生き抜いていくという自然主義文学に憧れた。小学生ながら、同じ境遇の自分の人生を重ねて、「早大に入って新聞記者になって、可愛い奥さんを貰って、母さんを幸せにしたい。」と人生設計を描いた。
今77歳になって自分の人生を振り返ると、マリオの冒険のように、山あり谷ありの「すごろく人生」にチャレンジしたが、ここまでは満足し感謝している。
何回か手相や四柱推命などを診てもらう機会があったが、いずれも「幼少期は苦労するが晩年は子どもたちに恵まれて幸せにすごせる。」と言われる。
幼児期は、戦争さなか、母子家庭に育ち、小学校までは、母親には心配をかけた。          中学は、文武両道この世の春だった。
高校、大学生活は、学生として無為に過ごし、努力せず、悔い多き青春時代を過ごしたと未だに反省している。
社会人になってからは、いかなるポジションを与えられても全力で事に当たり、努力した。結果的に仕事にも、師と仰ぐ人に恵まれ、励むことにより、チャンスにも恵まれ、良い運をつかむことが多かった。 この頃の経験が、「いくところ坂あり谷ありも、努力すれば結果オーライ」は、信念にもなった。
教員の途を断って、東京オリンピック景気で花形企業で脚光を浴びた中堅どころの広告代理店に勤務した。その結果、仕事に恵まれた。コカコーラJAPANに出向、POPの戦略に実践に携わった4年間はジョージ有馬の先端教育を受けた。
日本全体が「可能性というロマン」に輝いていた良い時代だった。給料が安くても、銀座、赤坂、六本木で華やかに第一線のステージであそび、仕事にも恵まれた。色彩、影、光、風、ファッション・・・のシャワーを浴びて、社会がなにを求めているか、直感力でとらえる感性を日々鍛えられた。
IT情報に乏しい時代、頼れるのは自己の脳裏にイメージを焼き付け発光していく創造力、表現力が問われる舞台でもあった。
担当した企画調査。7色の硬いクレヨンに慣れている幼児に、18色のソフトパステルで絵を描いてもらう企画。幼児がどの色を好むか。指定の色をどのように使うかが目的だった。ただそれだけで私は仕事をこなした。
その調査データーが、7年を経て、園児たちが社会に出た頃に、調査元の化粧品メーカーから、パステルカラーの化粧品や衣料品として新しい流行のファッションとして売り出された。
当時の私は仕事をこなすだけで、先を見据えていなかった。
このショックは、その後の人生の指針にもなった。
「幼児は未来の光。子どもを知れば未来が見通せる。幼児教育を勉強しよう」

子ども村の村長、幼児教育へのチャレンジ 
中野の芸術教育研究所の多田新作所長を訪れて幼児教育の指導を仰いだ。多田さんの紹介でNHKの幼児番組「歌の絵本」やフジテレビのピンポンパン等の番組を通して坂本晋平、渡辺直子、佐久間俊直さんとの出会いがあった。彼らの幼児への愛とロマンとそれを表現する技に触発されて、昼間は幼稚園や保育所で体操や絵の講師、夜は芸術教育研究所で幼稚園の先生たちと実践保育を学んだ。
多田氏の推薦で東京都の秋川自然公園内の「子ども村」のプランに関わった。私の夢プランが採用されて、子どもサマーランド村の初代村長に就任した。
広大な自然林に、幼児が1日、200人宿泊できる「ロッジ」は大和ハウス、ぺんてる提供の絵画村、林の中のヤマハの「音楽村」等、設計図面を片手に企業を巡り、未来への夢を語り「幼児のための子ども村」建設の協力を仰いだ。
1年半の突貫工事で完成した子ども村の開村日。浅草の80名の花川戸幼稚園の子どもたちを迎えた感動は、私の幼児教育への原風景になった。
朝の起床、日中のプール指導、山登り、就寝まで毎日異なる幼児の指導と引率で休日はなかった。特にキャンプファイアーの司会、ゴリラのゴング君の着ぐるみを着て汗まみれだった。夏が過ぎると、夜は、シナリオを書いて劇を作り演出。幼稚園や保育園への公演巡回、そして、体操あそびの先生として幼稚園や保育所で子どもと生活を共にした。
その日暮らしで不安定だったが、この時期、埼玉の幼稚園の先生だった妻との出会いがあった。    母と二人だった食卓が3人になり、母の晩年には、「にぎやかに7人で座れて、とても幸せ。」母の言葉だった。

「ダイナミックな自然の中での研修」
男性スタッフを加えての創立期の健伸幼稚園のスタッフは、「緑と水と太陽と土にまみれて」
「子どもはより子どもらしく」という教育課程の実践。                      よく働き、子どもと共によく遊び、よく勉強した。
貯金をしては、外国へ出かけてダイナミックに学んだ。
モンゴルの草原のゲルに泊まり、遊牧民の子どもに乗馬を学んだ。
アラスカの荒野をキャンピングカーを連ねてキャンプした。
フィンランドの北極境圏でアイスモービルで山野を縦走した。
ラップ・ランドの「サンタ・スクール」でライセンスを取得した。
ニューヨークの5番街で素敵なクリスマスイブを過ごしたことがある。
雪が降る5番街はおとぎの世界、ショーウインドーは夢、ユメの世界。
サンタクロースの街、ロバニエル駅で観た、壮大なオーロラの乱舞。
あの感動を子どもたちに是非見せたいと願っている。
幼児教育は夢世界。子どもと夢を共有し、夢をいっぱい膨らませることで教師も輝く。        教師が輝けば子どもがより輝く。
子どもが、あっと驚くあの表情、子どもを喜ばせる日々の保育。