3月号 ♣「子どもの質問に答える」♣
2017年03月03日
子どもの質問に答える
子どもの頭の中は、何もかも不思議な世界で、疑問でいっぱいでしょうね。
長い間、生きている大人にとって、あたりまえに思えていることでも、
子どもにとっては、「なぜ、そうなるんだろう」と疑問に思えることがあるはずです。
「どうして、ねなければいけないの?」と、子どもに質問されて、「そんなのあたりまえよ。」と
答えると、「どうして当たり前なの?」「だから、あたりまえは、あたりまえなの」と
答えたりしませんか。「いきものは寝ないと生きていけないのよ。」と答えておけば、よかった。
でも、子どもは、また質問するでしょうね。「お花は?お魚は?ねるのかな?」
「ね る のよね?」「でも、金魚は、目を開けているよ。どうして?」と質問はどんどん広がります。
お父さん、あの人、しっている人?」「知らない人だよ」
「へぇ 知らない人なのに、なぜ、「こんにちは」って、ごあいさつするの?」
「それは、挨拶すると気持ちがいいんだよ。」
「そうか。それではなぜ、お家の近くでは挨拶しないの。」
「それは、たくさんいるから、大変なんだよ。」
「そうだよね。「こんにちは こんにちは 」って言ってたら、たいへんだもんね。
「それに、人がいないところで知らない人に会う時、緊張するじゃない。
相手の人も同じ気持じゃないかなぁ。」
「だから「こんにちは」っていうんだ。」
「そうだね。わかった」と子どもが答えた瞬間、脳の偏桃体がぶるぶると反応して
脳にインプットされるのでしょうね。
ところで、「この挨拶をする」という行為は、人間が生きていくための大切なシグナルでもあり、
周辺を照らす電灯でもあります。
夜道ですれ違う時、「私は無害です。あなたは、どんな人ですか?」というシグナルを夜道で発し、
笑顔で「こんばんは」と声かけしたりします。
何と答えたらいいのかわからない場合もありますね。あまりいろいろ教え過ぎると、
子どもが心を閉じてしまう場合もありますよね。
教えることは、大切ですが、あまり詰め込みすぎると、教えられたことは、
脳にインプットされずにその場限りで忘れてしまうことが多いようです。
それだけに、子どもが、わからないことを追いかけ、その結果、自分の力で解決していくことは、
脳にインプットされていきます。
健伸幼稚園では、3歳の頃から、自分で考え、判断できるような環境の中で、
子どもの力で、判断し行動する途へ導けるようにしています。
特に、年長になると、子どもの質問に対して、
「先生は、こうした場合には、このように考えて、このようにします。でも君はどうしたらよいか、
自分で考えてごらんなさい。」という方法で、子どもの学ぶ力を育てています。
そうした自己解決力の環境で幼児期を過ごすと、小学校の高学年になる頃に
「自分のことは、自分で考え、決断し、行動する途」が広がります。
あれこれ考える方法を身に着けると、それを繰り返していくうちに、
あっと驚くような考えや発想が導き出されたりします。
良き発想は、頭を絞りだすように訓練した人が身に着ける技なのです。
発想が豊かな人に対して「あなたは、どうして、そんな考えが浮かぶの?」と、
質問する人がいます。
そういう人に対しては、「あなたが幸せで恵まれていて、何でもやってくれる
親切な人にめぐまれたからです。発想の豊かな人は、ハングリーでいつでも
悶えている環境に育っているのでしょう。」と答えています。
「今年の作品展いかがでしたか?」
「花組の絵が上手でした。」
「竹組さんは、大きな画用紙に伸び伸びと描いて、一年間でこんなに成長してビックリでした。
年長組は色が明るく、動物や子どもの姿がたくさん登場して、子どもの描線に、
子どもらしさを感じとても感動しました。」という養成校の先生のご指摘をいただき、
とても嬉しく感じました。
この時期の子どもたちは技法と型を教えると、素早く反応して上手な絵を描きます。
ただし、世阿弥が指摘するように「この時期の教え込まれた姿は、真の姿ではない。」
この世阿弥の言葉は、幼児期の習い事をするうえで、気を付けなくてはならない大切なことです。
大人の手が入ると、立派にできても、身につかず、いつの日か元に戻ってしまったりします。
子どもの発達の要件として、昆虫の脱皮と同じように、子どもは、次のステップのために
もがき悶えると良いですね。子どもの描画の特性は、身体をひねる様子を表現するために、
手前の手を大きく濃い色で描き、右手を小さく薄い色で描いたり、針金細工のようにひねり、
ねじり色を変えて描いていることです。
子どもが、この過程を経験して、小学校の絵の時間で遠近法、混色・・・
デッサンの基本を学んだ時、子どもは次のステップを踏み、新しい発想を学習していくのでしょうね。
算数の問題とは異なり、人生の途は、答えは必ずしも一つではなく、多様です。
美しさも、素晴らしさも、ものごとの途は多様です。答えは一つとはかぎりません。
人生は考え抜くことで開かれます。
私は、77歳になって、歩く力も、物覚えも、聞く力も、コマを回す技能も・・・
衰えを感じたりします。視力も衰えて文字が読みづらくなりました。
幸い、幼児教育の途に携われたおかげで、若い時に回り道をして鍛えた感性と直観力が、
子どもの世界との関りで役に立つことが多くあります。
大人の世界で見えないことが子どもの世界で見えたり通じることがあります。
幼児は、説明書を読まなくても、見よう見まねで、パソコンやスマ―トフォン、
タブレットを操作したりします。日常の生活では、スマフォに依存して生きている
今の若者よりも、直観力では勝っているかもしれませんね。
幼児の学習力は、とても過大です。子どもは目で見た色、形、量感、耳で聞いた音、
お話、風景、喜び悲しみ、寂しさ、恐ろしさを、脳の奥に感覚として認知できています。
『幼児期だからこそ、大人の相似形のような育ちをさせるべきではない。
幼児期は、もっともっと、ドキドキワクワクするような夢の世界で育てたい。
その夢世界の不思議な体験が子どもの感覚の中にしみこんでロマンになる。
そのロマンこそが生きるための「キラキラ星」となる。』。
「さぁ 松組さん いよいよ巣立つ日が近づきました。
残り少ない健伸での日々を楽しんでください。」